困難になった大手紙の大衆操作

今回はマスコミによる大衆操作をめぐる変化について表記して考えてみたい。

 

ウィンドウズ95が登場する以前、つまり20世紀が終わる頃まで、人々にとって情報の取得方法は新聞テレビや本、口コミしかなく、中でも大手メディアが発信する内容によっては踊らされ、時に政権交代を起こすほどだった。ここでは「YiyOTitu」(イヨンチツ)という固定が成立しており、人々が何の疑いもなく信じていれば「neYiyOTituna」(ネイヨンチツナ)という、neからnaへのルートが完結していた。つまり疑いかける懸念の仮定形eをつけ、疑わなく考えない未然形aまでを上下関係の組織Oで固めたのである。

 

しかし、OはAに揺さぶられがちなため、「tATi」(タンチ)が繰り返されると、大手メディアの意図から離れて伝言ゲームのように違った方向に風聞が広がっていくこともある。

 

これを現代に当てはめると、いまだ大手マスコミは健在なので大衆を操作誘導しようとするも、つまり一面見出しにデカデカと煽情的なタイトルを付けたり写真を意図的に選んで掲載したりするも、読者は鵜呑みにする前に他の媒体でも確認する。特に最近多いのがニュース記事の下につくコメント欄だが、ここに冷めた鋭いツッコミが多数の賛同を集めて一番上にあったりすれば、簡単には踊らされなくなる。さらに動画でも確認し、それらの結果、上記Oの効力は薄まる。Oが薄まればAにも及ぶ。伝言ゲームの途中でネタ元に訂正があれば、訂正の訂正という訳の分からないことになる。

 

そこから5素サイクルではEの法則が登場する。つまり、本当に正しい真実は何か?がテーマになり、結局は大手紙が言うことよりも身近で確かなことを探る。それがzEnuだったりする。つまり自身が鍛え経験した技術が本当となったりする。コメントや動画も鵜呑みにはしないが、自身の経験や意見を述べて賛同されるか否か確認し、賛同が多いと自信を深め、少ないと反省する。

 

そういう傾向に大手紙は貢献している訳で、昔のように踊らされることはもはやない。

 

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「悟りの境地」に苦行は必要か?

5素サイクルでは、仏教が理想とする最終段階の解脱は、記憶過程の最終到達地である認識段階と同一と見る。ただし、仏教ではこの段階に到達する人はなかなかいないと説くので、未然形aをつけて「wa」と表記すべきである。対して5素サイクルでは、記憶を行動に移す際に「wi」となり、連用形iをつける。

 

簡単には到達しない「wa」からスタートして、たくさんの資料を調べたり知っている人に尋ねたりするようなことをせず、古来より山奥に籠ったり滝に打たれたりして苦行を選ぶ僧が多かった。何故だろうか?

 

苦行を表記すると「Gig」となる。それこそ非常に偏った物理環境の中で自らも偏り、苦しむ。それを何日も何か月も、人によっては何年も行い、やがて悟るらしい。閃く段階は「h」なので、そこに5法則の1つ、Iの法則が関わって「GigIhu」(ギギンフ)と表記される。まさに5素サイクルの通りで、この時の悟りは苦行の範囲の中で、苦しいという意識λ(ラムダ)を中心に悟りが開かれる。

 

僧に限らず一般人でも、苦しい時期を乗り越えて強くなる例があるが、これとほとんど同じである。仏教では修行が煮詰まってきたブッダにスジャータが優しく飲み物を差し出す場面があるが、仕事でももがき苦しんで孤立したところに誰かに優しく声を掛けてくれる場面があると、そこである種悟りに似たようなものが閃く。

 

そして苦行をしなくなる。無意味で必要ないというより、悟ったことを育て大事にしようとするのだ。ここで「waGiIhimiwu」(ワギギンヒミウ)というwaからwuへのルートが完結する。

 

 

新哲学や新概念を使い富を生み出す

「一人前な人が技術を説明したので理解できた」ことがzEniNu(ゼンニヌ)、逆に「半人前ま人が説明したので理解できない」はzaEniNa(ザエンニナ)。聞き手は「何故そうなるの?」と思っても、「おそらくこうだろう」としか言えないので体系観念がつながらない。

 

半人前から教わって、いざ実行してみてもやはり自分も半人前だった場合は、zaEniNEza(ザエンニネンザ)。逆がzEniNEzu(ゼンニネンズ)で、一人前から教わって一人前になる。

 

この例は実際に多いはずだが、多くの人はあまりにもよくあることなので特に考える対象にしない。しかし、ゼンニネンズとザエンニネンザの2つを並べて、周囲の例を分類すれば、当然ながらゼンニネンズの方に注目が集まり、ザエンニネンザの問題にも関心が集まるだろう。そして、ここからが大事だが、別に資格者ではなくてもその業務やスポーツの経験者なら、ゼンニネンズが成立して謝礼を受け取ることもできる一方、資格者ではあっても怠慢その他の理由でザエンニネンザとなる場合だってある。

 

新しい哲学、新しい概念を使用して、富を生み、幸福につながる道を模索するのが5素サイクルの使命と目的である。

 

前回の、「正確な因果関係を説明する状況」を表記する「zEniNu(ゼンニヌ)」と、「間違った因果関係を説明して通じない状況」を表記する「zaEniNa(ザエンニナ)」の2つは、哲学史的に非常に画期的なものだと思う。

今回は、衣食住の食と住でこれらを考えてみたい。まず「zEni’Nu'(ゼンニーヌー)」とは、無駄がない状態z’の時の観念ρで取引n’を行う状況だが、逆に「zaEni’Na'(ザエンニーナー)」は、無駄が多い状態z’のρで行う取引なので公正でなく価格も適正でなく納得がいかず、取引はもの別れに終わる。実際にそんな事例は多いだろう。

次に、「zEni”nu”(ゼンニッヌッ)」は、仲の良い状態z”の時の観念ρで対策n”を講じる状況だが、逆の「zaEni”nu”(ザエンニッナッ)」は、まだそんなに仲良くなっていない状態で対策を講じられない状況であり、洩れがある。

これらの状況の違いをもとに、科学的な因果関係の追究、合理的な取引、強固で隙のない予防対策に努めなければならない。

日韓問題を例に新表記法を使用する

今回は正しい場合と間違っている場合について書く。

原因と結果を考える状態の表記はn。因果関係の説明を他人が聞く場合、外部発信なので大文字N、これらの子音字に連用形iと終止形uをつけて「niNu」が基本の形だ。

正確な因果関係といえば、一般的には実験科学に基づいたものとなるが、では非科学的な宗教や伝統が全て間違っているのか、というと、何でも一分の理ぐらいはあるように、全否定はせず部分賛成に留めたりすることが多い。そうする根拠はどこにあるのか?

ここで「Eの法則」が登場する。一人前に技術修得上独立している状態zの時の体系観念ρ(ロー)と、因果関係を考える状態nの時の体系観念ρが一致すると、納得して賛成する。「火打ち石を使えば火が発生する」と言葉で聞いて今ひとつわからなくても、実際に試した後ならば2個の火打ち石をカッチカッチと打ち合わせて火花を散らせ、乾いたワラ等の可燃物に引火させることが分かる訳である。表記は「zEniNu」(ゼンニヌ)となる。

しかし、状態zがまったく成立してないのに状態nになった場合、体系観念ρは一致せず、間違った因果関係の説明で状態Nも成立しなくなる。ここで新たな母音字として未然形aをつけて、「zaEniNa」(ザエンニナ)と表記する。

ザエンニナの例としては、最近の日本が韓国に対して「使途不明なフッ化水素について明らかにしないのでホワイト国リストから除外した」という説明をしたのに、「徴用工問題の報復措置として日本が輸出を規制した」と韓国が国際的な場で発信した例が挙げられる。結局、世界を巻き込んで日本に除外を撤回させる策はうまくいかなかったが、もし韓国がフッ化水素の輸入分の使途を全て明らかにして、管理にまったく問題がないのに日本が除外したならばゼンニヌは成り立つが、そうできていないのだからzaであり、ザエンニナという結果になったのである。

頭の切り替えについて

「ヒューム 観念連合」で検索すると、どのサイトもヒュームが述べたことの解説までであって、それ以上の進展がない。18世紀から21世紀の間に時間も文明も大きく隔たりがあり、その間にヒューム哲学が政治経済、科学など多方面に影響を与えた割りに、この30年間の閉塞状況に陥っているのは、同じくヒュームを基にした新自由主義の手法の誤りを証明しているようなものである。

 

では、今後ヒューム哲学をどう進展させるべきか。その手始めとして、そもそも「観念連合」という言葉だけで良いのか、正確なのか、ということを考えてみたい。重要なキーワードであることは認めるが、人間の認識過程の中で、印象から単純観念へ、そして複合観念へという流れだけに光を当てている。それはそれで当時は、非科学的な因果律を振りかざす宗教伝統勢力の力を大きく削ぎ落とすことには貢献したし、より高度な観念連合を求めて議会政治や競争経済を推進することにも役に立った。

 

しかし、ここからが今回の本題になるが、スポーツや仕事、芸能などを修得する際に関わる複合観念は、いざ試合や実務を実践する時には新しく単純観念の方が大きく関与してくる。「金メダル」や「今日中に100個完了」という単純観念の関与のもとに実践する流れは、ヒュームとは逆の、複合観念から単純観念への流れなのである。この事実を真実として次の話を進める。

 

人間は対象の映像に対して、単純観念を得る段階の時は主観的だが、複合観念をつくる時は客観的である。逆に、対象の物体的側面に対して、技術修得時の複合観念をつくる時は客観的だが、試合や実務で単純観念が関わる時は主観的なのである。もとより、試合後や実務後に反省すると、ヒュームでいうところの印象が生じ、新たにつくった単純観念から更なる複合観念を得る。これをサイクル状に行う。

 

つまり、主観的自我(主我)や客観的自我(客我)というのは、自我の切り替えではなく、本当は大脳新皮質の中の観念の切り替えなのである。

 

観念連合ではなく、観念切替が正しい。くだけた言い方では「頭の切り替え」になる。それでは、衣食住の食や住についても簡単に見ていきたい。

 

ある商品が欲しい、と思う時の観念があって、次にそれを得るには高価なのであれこれ我慢して貯金しなければならない、と思う場合もこの観念切替が生じている。得なことだけでなく、損や犠牲も考えるようになって初めて、主観から客観に変わっている。一方、いろいろ節制や貯金、合理化を行った後、いざその商品を得るべく動く時は、客観から主観に変わっており、ここでも観念切替が行われている。

 

最後に住だが、他人といる時は他人の顔や背丈などの個性を把握するものだが、知人といる時は自分と知人との関係を成り立たせている風土の方が重要になる。しかし、没個性的なままでいても、日々起こる出来事や事故事件の中で、何らかの主体的行動が必要になる。ここでも、主観から客観、客観から主観のサイクルが行われている。

 

以上の話を前回までの表記で言うと、「ザデンチネンズ」になる。

 

技芸の技術修得と製造業の効率化

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今回は、スポーツや芸能の技術修得状態であるzに五段活用の母音字aをつけたzaの話ではなく、コンマをつけたza’について見ていく。これは技術未収得のzaとどう違うのだろうか?

za’は、スポーツや芸能などの分野ではなく、衣食住の食、すなわち経済面に関係してくる。例えば製造業でいう合理化や効率化がzの段階である。何かを製造していると、もっと早く造りたい、大量に造りたい、と思ってくるものだが、そういった思いに答えるものが合理化や効率化である。終止形をつけたzu’になれば、時間的に早く、量的には大量に造る状態になる。

しかし、未然形aをつけたza’になると、このような合理化や効率化がまだ出来ていない無駄が多い状態ということができる。工業的には先進国ではなく発展途上国、オートメーションではない工場内手工業のような感じといえる。

そういったza’の解決策として、先ほど見てきた「ザデンチネンズ」を参考にすると、「za’dEtinEzu’」(ザーデンチネンズー)、すなわち、客我のまま積極的な主我になることなく効率化を求めるのではなく、いったん主我に切り替わって投資段階d’になり、研究開発費をかけた上で合理化や効率化を達成するのである。