西暦2000年の前後で日本は何が変わったか?

もうすぐ平成が終わり、新しい元号に変わる日本。

 

今、新天皇の即位に伴う準備で忙しいはずだが、ただ天皇が変わるだけで日本社会のいろいろなことが変わる、良くなると考えている向きが多い。

 

確かに、明治と大正は違い、大正と昭和も、昭和と平成も違う気はするが、大正といえば関東大震災があって首都圏が壊滅したことがあり、昭和に入ってからは戦争と戦後復興に、平成では世界規模の東西冷戦終結と重なったから国内も変わった印象を受ける。

 

しかし、元号の切り替えにそういった効果があると考えるなら呪術的に寄り過ぎており、良くするにはしっかりと考えて判断してアクションを起こした結果でなければならない。

 

その意味で、西暦2000年をまたぐ当時の橋本竜太郎首相の省庁再編はまさに英断だった。

 

思い起こしてほしい。20世紀までの日本でのさばっていたのは誰だったか? 大蔵省という名の日本の財布を握っていた省だったことを。この大蔵省が政治家よりも権勢が強かったため、一時はノーパンしゃぶしゃぶ接待疑惑も騒がれ、時々疑獄事件が起きていた。

 

橋本総理は省庁再編の際に、皆の反対を押し切って大蔵省を財務省という名に変えてしまう。その背景に何があったか? 行政改革会議という名の集まりはカモフラージュに過ぎず、皆で考えていますよと世間に見せるためのポーズに過ぎない。

 

実際は大蔵省の力を削ぎ落とすために、名前そのものを威圧感を与える大蔵省から財政系の事務という名の財務省に変えたのだ。これだけにとどまらない。従来の日本が通産省や経済企画庁など経済一辺倒だった反省を踏まえ、金儲けに走るサルを改めようと、ある考え方のもと省庁を再編したのである。

 

手法そのものが実に哲学的だったのだが、当時のマスメディアは誰も理解できず、無駄を省くことが再編と言い続けていた。それはそれで仕方がない。

 

橋本総理は行政改革会議を招集する前から、「国家、富、文化、福祉の4本柱で省庁を再編する」と言っていた。この考え方が本論の「真理、利益、秩序の3本柱」と似通っていることはいずれ書くが、ともかくこの考え方のもと、例えば、

 

・文部省と科学技術庁が合体して文部科学省になった。つまり文系も理系もない、真実のもと文理を融合させようという考え方。

 

・通商産業省が経済産業省になった。これは貿易一辺倒よりも内需拡大を念頭に置いた。

 

・厚生省と労働省が合体して厚生労働省になった。国民の健康の実現のため。

 

・国土交通省ができた。会議中は総合交通省という名も検討されていたが、これは外務省を切り離さず全て交通に含めようとしたため。つまり秩序の実現である。

 

・少し後に防衛庁が防衛省に格上げされた。これも合理性より哲学が背景にある。

 

これらの再編は、当時は効果が疑問視されて看板の掛け替え倒れという揶揄や批判が多かったものだが、長年経った結果どうだろう? 日本は世界に比べて今や金儲けのサルとは言えなくなっている。グルメやオタク文化が世界に知られ、整列やおもてなし等の秩序も評価されている。

 

もちろん、何もかも橋本総理のお陰だという訳ではないが、国の基本的なあり方がしっかりしていたからであることは間違いない。

 

自民党議員たちはいまだに省庁再編を超える政治はできていないと自重している。小泉総理の特殊法人改革もその真似だったがとても及ばなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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ガンダムオリジンの映像化を見て

新しい説ができた後、今までは本にしていた。すぐに評価されることもあれば、死後に評価され生前にはまったく評価されないものもあった。安東昌益もそうだし、ディヴィッド・ヒュームもそうらしい。

現代では、私の偏見かもしれないが近代の知的巨人たちの時代が一気に衰退したように思える。ケインズやフロイト、ウィトゲンシュタイン、ソシュールなど、魅力的な名前がキラ星のごとく輝いていたこの時代は、音楽や絵画もそうだが評価が正確で正当だった。

現代は、コンピューターが発達してネットワーク化された割りには、小粒な語り手が多いだけで大粒な存在感に乏しい。「出る杭は打たれる」諺通り、誰もが目立たないように注意しているように見える。

しかし、価値ある有用性や画期的面白さを埋もれさせておくには勿体ない。ではどうすれば良いか?

例えば今から12年以上前、漫画雑誌「ガンダムエース」に毎月「ガンダムオリジン」という作品が掲載されていた。初代ファーストガンダムの作画を担当していた安彦氏がカムバックしてシャアの若い頃の話を描いたのだ。非常に面白かったので毎月買い、引っ越しの時は仲の良い古本屋に「絶対売れるから」と言って置いてもらった。

ところが、数ヶ月後に再び店を訪ねてみると、「あれ全然売れていませんよ」と嫌味を言われる始末。そんなはずはと思ったものの、確かに世間ではあまり話題になっていない。それから12年後の現在、「ガンダムオリジン」の映画は絶好調で人気になっていた。何が違うのか。

最新作「ルウム戦役」を前に過去5作品がavemaTVで放映されたので見つつコメント欄をリアルタイムで読むと、視聴者の多くがストーリーを知らず初めて見る感じだった。シャアがハモンに助けられる話も、タンク同士が戦う話も知らず、コメントは内容を追いつつ盛り上がっていた。

つまり、雑誌や本の段階ではまだ知名度が低かったものの、動画となって宣伝されて初めて、知名度が上がり、見やすくなり、カネが動き、評価が高まったのである。

全ての新しい説は、動画になり得る。それは講師が熱弁を振るっても良いし、映像が美しいアニメになってもよい。もし時間と予算があれば、専門技術者とともにそこへ残る人生を投じてもよい。

メタ法則の存在意義

29年前の5月の今頃も、今日みたいな五月晴れだった。高校を卒業して浪人になり、例えて言えば自由電子としてどの分子にも属さず浮遊していた。

公園に朝からずっといた。芝生から動かなかった。何時間もいるつもりだったが、昼前にあることを閃き、今度は夕方までずっとそれに夢中になった。自分では素晴らしいアイデアだと思われた。何せ全ての法則を1つにまとめられる訳だから。

しかし致命的な欠陥があった。含まれる法則を読者は全て知っている訳ではない。この面白さをまったく理解できないのだ。

結局、日常からできる法則は認められても、法則群の上にあるメタ法則は誰からも認められないまま現在に至っている。

あの時のことは何だったのか。暇な自分に夢中になる時間をあてがわれた玩具に過ぎないと言うのか。

エデンからノアまでの話と人間の状態過程

存在段階から認識段階に至る「記憶過程」はいいとして、認識段階から存在段階に至る方を「装飾過程」と名付けたことについては、以前から疑問の声があった。

大学時代に自著を読んだゼミの教授も「装飾ねえ」と言ってそこで止まった。この反応は特に問題ない。25年経った現在、甥が書いた思想書を私は一顧だにしない。この年代の若造は何かと物事を達観したりまとめたがったり、読ませたがったり、評されたがったりする。

しかし、その言葉を裏付ける実験結果も証拠もなく、あるのはその結論に影響を与えたものは何かという事実のみ。甥にも何を読んでどう感じてそうまとめたのかを問うていきたい。

以上のことから改めて「装飾過程」とネーミングした背景を探っていけば、単に目指す存在に至るからという理由だけでない事実に行き着いた。

恐らくだが、これは旧約聖書の話に影響を受けている。

すなわち、エデンの園に住んでいる当初のアダムとエバは、神にとって何の問題ない住人だったが、食べるなと言われていた園の中央にある木の「知恵の実」をヘビに騙されて食べたとき、「裸であることに気付き」「葉で覆った」 これが「記憶課程(知恵の実)」と「装飾過程(葉をまとった)」なのである。

現代でも、知恵に感動すると自身を恥ずかしく思い、自身が何者でもないことに気付き、何者かになろうとする。

神が2人をエデンから追放した理由として、園の中央には元々2本の木があって、知恵の実を食べた後はもう1本の方の生命の実を食べて不老不死になることを恐れたため、という逸話があるが、私は別の見方を持っている。

もはや動物と同じではいられなくなったということは、衣食住の生活ができる地に行かなければならなくなった。それがどこなのかは、歩いてみて2人が納得する地である。ずっと歩き続けた訳ではなく、どこかで止まり、そこに住みついた。

もし神との別離が決定的なことなら、2人が祭壇をつくって祭り祈ることすらしないはずだが、その後のカインとアベルの話からも分かる通り、知恵の実を食べたからエデンにいられなくなっただけだと思われる。

また、誰もが思う疑問だが、同時代に他に人間がいなければカインは誰と結婚してどう子孫を遺したのかとなるが、恐らく知恵の実すら食べてない原生人類の中から、大脳を使うアダム一家が人類を進化させていったのだ。

記憶課程と装飾過程を進ませつつ、人類は文化や文明を発展させ、やがて方舟をつくるまでに至るノアが出てくる。後になってノアは神の言葉を聞いて船をつくったと言われるが、木を何十本も切って板材に加工するなんて、実際にやるとなると途方もない時間がかかる。

川が時々氾濫することと、たまに大洪水が起こることに備えてだろう。方舟をつくる知識や技術、まさしく記憶課程と装飾過程を進ませて、ノアは長い時間をかけてコツコツとつくっていった。他の人々はその時は木にでも登ればいいさと享楽的に生きていただけだが。

やがて大雨が降り、川がまた氾濫し今度は大洪水となった。ノアは主な家畜を中に入れ、家族とともにこの危機から助かった。

革命に戦争は必要か?

長い歴史の区切り方として、安定期と不安定期とがある。言い換えれば戦争と平和だが、この考え方を嫌う人が多い理由はまさしく、現代の平和がいつかは終わり、再び悲惨な戦争になるからだろう。

その萌芽は確かにあり、イスラム国のようなテロリスト、北朝鮮のように核実験やミサイル発射実験を繰り返す国、アラブとイスラエルなどを見れば、何か起きても不思議ではない。しかし、起きたら最後、キノコ雲とともに大多数の人々がいなくなる。そう考えると、たとえ今の平和に様々な問題があっても、戦争だけはあってはならないと思うのも当然である。

しかし、ダラダラと平和が続くことによっていつまでも問題が解決されなかったり、ゆでガエルの喩えのように無自覚に衰退が進行するのも困りもので、歴史上の英雄の多くは、悪徳支配者を武力とはいえ成敗して次の平和を確立したことが賞賛されている。

以上、考えていくと、別に戦争がなくとも衰退した平和を何らかの方法で次の平和につなげることもあり得るのではと思えてくる。例えばスポーツかというと違う。どの戦争期も技術上の大革新を伴うものだからだ。

むしろ、技術上の大革新の面だけを考えていくと、ウィンドウズ95のことがどうしても出てくる。1995年を境に世界は確かに大きく変わった。

1995年から、ウィンドウズパソコン、インターネット、ユーチューブ、フェイスブック、ツイッター、スマートフォン、と技術上の大革新が行われた。そして世界中が1995年以前とは比較にならないくらい変化した。

北朝鮮のアピール

北朝鮮の行動に対して、今まで明確に説明できた文章を見たことがなかったものの、最近ある記事を目にした。元ヤクザから見れば、北朝鮮は「アメリカに沈黙されることが怖いから」ミサイルを発射しているのだと。果たしてそうだろうか?

本ブログでは同じ状態にある者を比較して考えるが、どうも規模や関係が違うことから今一つピンと来ない。

それでは状態として明確に何だと言えるか? いつも日本は唐突にこのニュースを受けることから、ΩKであることは間違いない。すなわち権利行使だ。

北朝鮮が権利を持っていることを示すためのミサイル。発射しなければ諸外国は注目しない。