哲学と戦争

かつて、産業革命や名誉革命、エリザベス女王1世の聡明さ等から「7つの海を支配した国」と呼ばれたイギリスも、第二次世界大戦では弱さが目立ち始め、大戦後は植民地だったアジア・アフリカ諸国が独立してヨーロッパの1国に収まっている。EU離脱後の行方も気になるところだ。

イギリスの強さは哲学の強さでもあった。ジョン・ロックやディヴィッド・ヒュームの哲学は伝統的なキリスト教哲学との決別を決定的にした。簡単に言うと、「キリストがこう言ったからこうである」とする教条主義に対し、「人々の頭の中の観念連合」に着目し、教条主義の観念連合よりも「議会で話し合う(観念連合を練る)民主主義政治の方が王政(観念連合を練らない)よりも良い」、「競争して(観念連合を練って)サービスを向上させる市場経済の方が良い」、「実験して仮説を検証する(観念連合を確かにする)科学の方が良い」ことを打ち立てた。以後、世界は近代化に進み、イギリスはその先頭を走った。

「ものの見方について」という本の著者・笠信太郎氏によると、そもそもイギリスは「霧のロンドン」と言われるように雨が多く、曇り空の下で彩り豊かなガーデニングに勤しみ、霧の中で対象が何なのか知覚しようとした。そのため、イギリス人は物を多面的に見ようと努めた。

一方のドイツ人は、雨こそ多くないものの、「ドイツの森」と言われるように深い森林地帯があり、森の奥の本質を重要視した。そこからコッホのように病気の原因である細菌を突き止めてきた。イギリス哲学は対象を多面的に見て単純観念をつくり、そこから複合観念へつなげる流れに対し、ドイツ哲学は対象をまっすぐ直視して裏側にある真実を見極めようとし、カントの「物自体」やヘーゲルの「ガイスト」などが出てきた。

フランスは「割り切る」と書かれてあり、いちおう私なりに解説すると、17世紀に「近代哲学の父」と呼ばれ出てきたデカルトの「精神と物質」の二元論、フランス革命の思想的柱になったルソーの「若い男は年上の女性と結婚してやがて離婚し、老いると若い女性と結婚してやがて離婚すればよい」という合理性?がいかにもフランス的である。

フランスはイギリスに比べるとあまり考えずさっぱりと感覚的と言え、さらにイタリアはもっと感性的と言える。ゆえにフランスもイタリアもファッション系の有名ブランドが多い。

戦争になると、このあまり考えないところが災いし、フランスもイタリアもよく考えるイギリスに敗れる。ワーテルローの会戦で連合軍を率いるウェリントンがフランスのナポレオンに挑んだ理由はプロシア(ドイツ)が合流するだろうからであり、ナポレオンが連合軍に応じた理由もプロシアが参戦しないと見込んだからである。そこで早朝から決戦しようとしたものの、大雨による泥地で大砲を動かすことができないため地面が乾く昼まで待ってしまい、結果夕方のプロシアの合流が間に合いイギリスが勝利した。

ところが、第二次世界大戦ではドイツや日本がイギリス軍を各地で破る。ドイツのロンメルは戦車部隊による電撃戦でフランスを降伏させ、エジプトでも神出鬼没に敵の裏側へ回り込む戦法でイギリス軍を翻弄した。イギリスの首相チャーチルは、「ロンメル! ロンメル! ロンメル!」と何度も連呼して悔しがりそして感動した。日本も山下奉文(ともゆき)率いる自転車部隊が「マレー電撃戦」と呼ばれる素早さでマレー半島を縦断してシンガポールを陥落させ、イギリスのパーシヴァル将軍に対し「イエスか、ノーか」と有名なセリフで迫り破った。世界史における有色人種台頭の歴史的転換点だった。

これらを見ると、イギリスはよく考えようとするあまり、ドイツや日本の速度に弱かったとまとめられる。そして現代も、EUにおける移民問題から、いったん立ち止まってよく考えようという方向が勝り、EUを離脱したと思われる。

さて、第二次世界大戦後半になるとドイツや日本の速度は補給の失敗から弱まり、圧倒的な工業力を持つアメリカに敗れた。世界は米ソ冷戦時代に入ったが、これは英米系哲学とマルクス・レーニン哲学の対立とも言えた。マルクスの弁証法がヘーゲルの弁証法を参考にしているため、これは英独哲学の対立と言ってもよい。

そして1989年、ベルリンの壁が崩れ、世界史はいちおう英米系哲学が勝ったことになった。

しかしながら、新自由主義に対する反発は多く、本家のアメリカでもTPPから離脱したように英米系哲学一辺倒でも偏りがあることは明らかと言える。

いまだ世界は模索中。応仁の乱や第一次世界大戦のような展望のない泥沼な戦争に陥ることは良くないが、北朝鮮やイスラム国のような前近代的な地域を放置することも良くない。

つまりは哲学と戦争の何たるかを見つめ直すべき時と言いたい。

人類史は回帰している

科学ではいまだに、無生物から生物はつくれていない。

 

最も初期の生命体である原核生物でさえできない。ということは、

 

たとえ他の星に水や酸素や恒星があっても生物がいるとは言えないのではないか?と思う。

 

地球の偶然には、ほぼ同じ大きさに見える太陽と月の距離と大きさの不思議から、温度や濃度や重力、磁力など様々な要件の絶妙なバランスの上に生命体があることから、この世の中心と考えても問題ないと思っている。

 

では何故に生命は地球に生まれたのか?

 

近代哲学を創始したデカルトは精神と物質を分けて考え、物質は計算可能だが精神は不可能で不可解とした。

 

その後、量子力学という分野が生まれると、波と粒子の両方の性質を併せ持つ量子こそが精神の正体であり、死後に遺体から抜けた量子が次の生命体に貼り付くと前世の記憶が残る生まれ変わりという現象になると真面目に語る科学者も出てきた。

 

すると、原子や分子ができるはるか以前から素粒子が先にあると考えて、この波こそが始原にあると思われる。

 

波は現代でも、楽器を通じてその美しさを現実にしたり、文学や詩でも出てくるように、オモテには普段は見えてこない。

 

この波だけが最初にある段階こそが高い精神世界なのだろう。

 

一部の素粒子は組み合わさって原子や分子などの物質になったが、別の一部は精神的な波としてその後も残り、物質との組み合わせによって単細胞生物になったと思う。

 

それを推進した力は何か?

 

始原の高い精神世界への回帰だと考える。すなわち、

 

物質ができたため、今度は物質を巻き込んで元の高次元な世界を実現しようとしたのである!

 

それは気の遠くなるような長い道のりである。

 

人間が生まれもう少しで実現するという段階になっても、人間は争い合って低次元なままでいようとする。そこで、

 

時々哲学者が登場して人類を次の段階にステップアップさせようとした。その詳細は本サイトで描いた通り。これもサルトルでほぼ終わり、哲学者はもう出て来なくなった。

 

現在、トランプやプーチン、習近平、安倍、朴、金正恩、アサドなどがキーマンとなって、この回帰を止めかねないことになっている。

 

生命と量子

漫画に使われる記号は、誰も不思議に思わないみたいだが、けっこう普遍的である。

 

怒りを表すにはコメカミや蒸気の記号、好きになればハートの記号、恋に破れれば割れたハート・・・。

 

この記号を見て誰もの頭の中に共通した情念の「波」が生じているのだろう。

 

情念の波は機械の画面上でも、怒り、愛情、悲哀、嫉妬ごとに形が違い、そして多くの人に共通している。とすると・・・、

 

これら各波はいつから在るのだろうか?

 

生物の歴史は、どこまでいっても生物から生物への歴史であって、無生物から生物が生まれる実験結果はない。

 

最初の生命といわれる原核生物の前は何だろう?

 

エネルギーを持つ粒子である量子、ここに注目してみよう。量子のある一部の波と、ある一部の物質との組み合わせこそが生物ではないか。

 

食欲の波、雌雄に分かれると性欲の波、安心感や恐怖感。

 

宇宙ができる時からそれはある。

 

素粒子段階の生命

実験科学では、モノ(=無生物)から生命体をつくることは、まだ出来ていない。

 

物が先か、生物が先か、という題材で、公式には物が先にあって後から生命が出てきたとは言われるものの、上記の話からどちらが先とは実は言えない。

 

むしろ、爪や糞や汗のように、生命体から物が出てきており、神話では神が物を産んだりする話さえある。

 

さて、物を構成する分子、分子を構成する原子、原子を構成する素粒子について、いろいろな係数が決まっている。この係数の数値が少しでも違うと、今ある宇宙はまったく違う宇宙になるらしく、それだけ絶妙なバランスをとっている。

 

この各係数が決まる段階が先にあって、後から物の世界があると思う。そして物の世界に生物がいて、原子生命から高度な生物、ヒトへと進化する。

 

一方、まだ物が現れていない、物の前段階としての素粒子の係数が決められる段階においても、生命があると考えてみよう。

 

それはいわゆる生物、生き物ではない。物が先か生命が先かというと、生命が先であり、その生命は物とともにはない。各係数とともにある。

 

さらにその前段階は混沌としか言えない。そしてこの時代の生命主体こそ「神」なのだろう。物質が出来た後も神はいるはずであり、原核生物や真核生物が出てきても神はいた。

 

ヒトがいる時代はどうか? 後述する。

 

夢がデタラメな理由

私が考える「意識」は、量子でもないし脳の中でも、まして脳の中のマイクロチューブルの中でもない。わかりやすい図で表すと、

home_gaisyutsu_man「相手(対象)がいる」「シチュエーション(場)がある」「表情や手足(身体)、言葉で表す」等と連動している「意識」である。つまり意識は単独で扱えない。

 

科学者は物質と相容れない対立している側として意識を置く。確かにニュートン物理学の数式通りにはいかない。しかし、場の環境や状況、文法、文化の中で意識はかなり限定されている。

 

そして、物質によって意識は変わり得る。例えば睡眠中に見る夢はなぜあんなにデタラメなのか? いろいろな説があるものの、私は脳の中の液体が流れて夢が混沌化すると考える。寝相が変わると当然、脳内の水分もゆっくりと移動する。混ざり合う。

 

目が覚めている時も脳の中の液体は揺れており必ずしも安定しないが、寝ている時ほどデタラメにはならない。それは、上の絵のように、環境や状況、視覚情報、力関係などの中に意識もあるため、混沌化しにくいからだ。寝てしまうと、環境も状況も視覚情報も力関係もなくなる。

 

意識を固定させていたあらゆるものはなくなり、ただ液体が混ざり合うだけ。そんな夢に正夢や悪夢などの意味はあるのか、というと科学的に考えて無いと断言できる。

 

ただこの時に偶然できたクリエイティブな発想を覚えておくと、現実の世界にも新しく創造的な何かをつくることになるかもしれない。

 

 

意識は量子か???

先日、おもしろい記事があった。

「輪廻転生が実在することが量子論で判明! 専門医「死後、あなたの意識は次の人の脳に張り付く」

>意識は肉体の死後も生き残り、次の宿主の意識として活動すると語っている。

「量子論の創始者であるマックス・プランクなど、一流の科学者は物質よりも意識が基本的であると語りました。つまり、意識は脳が生み出したのではないのです。脳や肉体の死後も意識は生き残り続けます」(タッカー博士)
「ですから、意識は前世の記憶を保ったまま、次の人の脳に張り付くのです」(中略)ついに現代科学も狭い殻を抜け出し、広大なオカルトの世界へ足を踏み入れる準備が整ってきたようだ。

 

 

一部賛成しかねるところを幾つか書く。

・死後、遺体から放出される量子としての意識は“一粒”なのか? 一粒なら誰か1人に輪廻転生するかもしれないが、量子は微細なだけにもっと多いのではないか。

・生命体の遺体から意識としての量子が放出されるということだが、人間に限らないのではと思う。つまり、虫や犬が死んでも同じことがあり得るし、植物にだって火を近づけると怖がる意識がある。これらの量子が人間にはりつくこともあるだろう。

 

などといろいろ思ったものの、上記にある通り、物質よりも意識が基本的であるというマックス・プランクと同じ内容は本サイトの本編にもある。詳しくは18章以降の箇所にある。

この世界に物質世界が出来る前段階として、各量子があり、その前段階に、各係数が絶妙なバランスで出来ているはずなのだ。それを推進する主体というものがもしあるなら、それこそ創造神に違いない。

ただ物質世界の大宇宙ができた後段階に生命が誕生した際、この創造神はすでにいなくなっており、代わりの主体として原始生命が現れ、植物、動物、そして人間に至っている。

 

だから人間の脳は宇宙の仕組みを知ることができる。

 

「日暮旅人」が見た感情

「視覚探偵 日暮旅人」第1話を見た。

詳しいドラマの感想は他サイトに譲るとして、ここでは主人公が目にした「植物の感情」について書く。

満月の夜の森林公園で、日暮旅人は「木々たちが今夜は月がきれいだと言ってる」と呟いた。各植物の上にはゆらゆらと棒状の煙のようなものが白く光って揺れていた。

普通の人には見えなくとも、視覚だけが異常に発達したため見えるという。では実際問題、植物に感情はあるのか? 実は聞いたことがある。植物に火を近づけると怖がる波が検知されるのだ。

そして主人公は、人間の頭上にも揺らめく感情の波が見えており、その形が似ていたため親子を会わせている。

このブログの上に載せている図をご覧いただきたい。感情が生じている様子がよく分かるだろう。

整理すると、左端がモノ、次に微生物、そして植物、動物という順番になる。植物は月を愛でたり火を怖がったりの感情は発するものの、だからといって火から逃げることはできない。一方、動物は感情段階の次段階で動くことができる。

では人間は何か? 本編にある通り人間は「考える葦」であり、プログラムを思考で変更できる。上図には載っていない更に後半がある。

最後に、思考は素晴らしいもののプログラムを改変しきれず諸問題に対応できなければどうなるか? 感情は発するもののそこで止まり、枯れていく植物のようなものだろう。

ローマ帝国や世界の王朝も栄光は永遠でなくやがては滅んでいる。プログラム改変に限界が来たのである。ただ植物が種を残すように人類の歴史は別の人物が別の都で別天地をつくって継続していく。