思考のルーツを探る

先ほど「LOVE MUSIC」という番組で、いま10代の若者に人気の「back number」が出演していた。

実は年末、18切符で貧乏旅行をする途中にスマホで検索して泊まるつもりだった地方の漫画喫茶がつぶれていて、代わりにカラオケボックスで寝ることにした際、繰り返し彼らの曲(ハッピーエンド)が流されていた。店を出て始発電車に乗る際、このサイトの名前が決まった。

年甲斐もなく、テレビを消さずに番組を視続けるのを不思議がりながら妻子がリビングを出た。

自分たちの音楽のルーツについて、過去の日本のミュージシャン名がいくつか出てきた。コブクロ、ミスチル、槙原、桑田・・・。

演奏する段になってふと気付いた。真ん中にドラムを挟んだ3人組というこの構成は、アメリカのZZTOPに似ているではないか、と。

backnumber-zztop

1980年代のアメリカを席巻していた人気バンドで、私もよく視聴した。特に好きだった曲をここに紹介しておく。

「STAGES」という曲で、今思うとツインサイバーシステム冒頭の、「段階を少しずつステップアップする」プロセスの話に大きく影響していたのかもしれない。

将来の大政治家に向けて書く

いまNHKでスティングの特集をやっている。最高だ。

聴いたことがある曲ばかり流れる。お、「イングリッシュマン イン ニューヨーク」が出てきた。日本語の歌詞を初めて見たがイメージしていたとおりの哀愁漂う歌詞である。

インタビュアーが質問した。「歌で世界を変えることはできるか?」

スティングは答えた。「人の考えは簡単には変わらない」「一夜で世界は変わらない」

「でも何千人もの人々の前で歌うときにこう思うことにしている」「この中に将来世界を変える政治家がいるかもしれない」「大統領か、もしくは国連の職員かもしれない」「将来そういう仕事をすることになった時に思い出してもらったらいい」と。

同感だ。

いや、彼はかつて本当に世界を変えてきた。1985年のナンバー「ラシアンズ」をグラミー賞で見た時の圧巻。オーケストラをバックに高い壇上から叫んだ歌声が、永遠に続くと思われた東西冷戦にヒビを入れ、数年後のソ連東欧の崩壊を引き起こしたのである・・・と思う。

最後に特集では、21世紀に入ってからの13年間のスランプを扱った。今ではロックナンバーで復活したものの、これはおそらく燃え尽き症候群だと思う。

「人の考えは簡単に変わらない」 だから哲学を語るのを辞める? いや、閲覧者の中に将来の本物の政治家がいることを想定し、ラシアンズのように格調高い作品を送り続ける。

メタ哲学の観点

現代を哲学面から考えることがこのブログの趣旨である。

 

サイト中編では冒頭にパルメニデスからサルトルまでを載せた。問題はその後。

 

現代思想史では、ここで構造主義がくる。レヴィ・ストロースはサルトルと論争して勝ったとされ、主体よりも構造が重んじられた。

 

しかし、構造主義の時代は短く、すぐその後にポスト構造主義がくる。構造を脱構築しながら別のものが生じることを指す。その中心人物たるデリダが亡くなった後が不明。

 

1980年代は、ポスト構造主義よりポストモダンという言葉で思想が流行った。様々なキーワードが乱立した。

 

ポストモダンになってもニーチェが重要視されることから、構造主義とポスト構造主義の関係とは、単にこれまでの哲学史の繰り返しとも思われる。以下に証明したい。

 

・「近代哲学の父」デカルトが発見した理性 → カントの「二律背反」の境地 → ヘーゲルの「正-反―合」による理性の完成」・・・・「二項対立」を含む構造主義

 

・ヘーゲル的な理性の完成への反発 → キルケゴールの「単独者」 → ニーチェの「能動的ニヒリズム」 → ハイデガーの「放下」 → サルトルの「自由」・・・・ポスト構造主義の二項対立の否定

 

すなわち、「デカルト~ヘーゲル」「キルケゴール~サルトル」までの哲学史を、構造主義とポスト構造主義が繰り返している。

 

したがって、次に来るのが例えば「ニュー・ワールド・オーダー〈世界新秩序)」だったりすることも分かる。ただこれは市場原理主義者による多国籍企業が潤うための規制撤廃を意味するので秩序らしい秩序でもない。

 

ハイエクは「自生的秩序」と呼んでいるが、うまくいかなければただの「無秩序」である。

 

そこで、ポストモダンの論者の中には、理科系の骨組みを借りる者も現れた。すると20世紀末に有名な「ソーカル事件」が起きる。本職科学者のソーカルがデタラメな論文を哲学系の雑誌に投稿すると掲載された、したがって現代思想の科学による権威づけはナンセンスであると。

 

以後、思想家は21世紀の目まぐるしい変化の中できちんと語ることができないでいる。そんな中で、テロが起きたり、経済が落ち込んだり、少子高齢化が進んだりしている。

 

かつて、17世紀にデカルトが理性を発見したから長い中世から脱して近代が幕を開けたように、哲学の面から何かなければ世界はずっと対症療法に右往左往するのみになっていく。

 

ツインサイバーシステムはサイバネティックスという科学にヒントを得つつ、前々回に書いたように問題点は解決して更に広げている。

 

一見すると構造主義のようであるが、構造の変化を追っているところはポスト構造主義的でもあるし、どちらかに属すものでもない。

 

メタ哲学の1つと言った方が正確である。

 

 

華やかな時代ほど大哲学者が多い

ソクラテスやプラトンが現れた時期は、ギリシャ時代の中でも最も華やかな時期だった。

アリストレテスの教え子のアレクサンドロス3世が没してからは、ギリシャの衰退と時を同じくするかのようにタレスから続いていた大哲学者の系譜が途絶えてしまった。

その後、中小の哲学者は中世まで何人か出てきたものの、大哲学者と言える人は17世紀フランスのルネ・デカルトまで期間があいた。

デカルト以降、ロック→ヒューム→カントのように大哲学者が次々と現れた。それはヘーゲルやニーチェなど19世紀末まで続き、ちょうどヨーロッパの隆盛と同時期だった。

おそらく、大哲学者と呼べる人はサルトルで終わりだと誰もが認めよう。20世紀に入ってからはレヴィ・ストロースやデリダなど中小の哲学者がしばらく現れた。

それも1990年頃までであって、デリダが没して以降、中小の哲学者すら話題になっていない。日本も同様で、80年代のポストモダンまでは浅田彰が小哲学者と言えたが、90年代以降はまったく静かだ。

それは良いことか悪いことか、と言えば、時代の活性化のためにも改めるべきことと思わねばなるまい。ではなぜそうなったのか、どうすれば良いのか。

実は最近は特に、哲学思想系の材料は非常に豊富だ。90年以降の東西冷戦終了とグローバル化の是非、95年からのインターネット社会、2001年からの対テロ、その他環境問題や地震、少子高齢化、働き方の変化など。

これらの激しい変化が、サルトルやデリダ以降の思想的流れからどのように続いているのか、もし大哲学者と呼ぶべき存在が大学か在野にいるのなら、簡潔明瞭に示してほしいところである。

その見方が幾つかに分かれ、今後進むべき方向性についても幾つか論争がもし起これば、かえって時代は華やかといえると思う。

現状では誰もいない。

現状では週刊誌の記事に驚いたり、事件事故に驚いたり、ネット上で騒がれたりするだけで根本的な思考は何もない。

エセ哲学者が人生相談に答えたり、アナウンサーに解説したり、本のタイトルをキャッチーなものにして売上を喜んだりする程度である。

まさしく衰退期の現象。晩期ギリシャ、晩期ローマもこんなものだろう。寂しい限りだ。

繰り返すが哲学思想系の世界が活発になることは良いことである。新自由主義を根本まで遡って批判することも、それを支持し新しい道を示すことも、さらにステップアップすることも。

まずはそこに気が付こう。

サイバネティックスの問題点

ノーバート・ウィーナーが考案したサイバネティックスという学問分野は、サイボーグの語源になったり、サイバーテロの接頭語になったりと普遍性を勝ち得ているように見える。

 

しかし、サイバネティックスをググッてみると、ウィキペディアにこそ載っているが、最近はどこにも使用されていないことが分かる。何故なのか?

 

一言でいえば「使えない」からだろう。いや、そんなことはないと否定するサイバネティストもいるかもしれない。空調が室温を一定に保ったり、調速機が速度を一定に保ったり、渡り鳥が目的地まで正確に辿り着ける仕組みの解明も、また弓で矢を的の真ん中に射る仕組みの解明もサイバネティックスがあるお陰であると。

 

ではサイバネティックスは万能なのか? 確かに一昔前は景気の波や生物群集の波をも制御し得ると期待された。そうした汎用性を持った学際的な広さを持つと言われていた。

 

現在のサイバネティックスの衰退は、これらがうまくいかなかったことの無力感とも無縁ではないだろう。

 

ではなぜサイバネティックスは失敗したのか?

 

私は考え方の設定が誤っていたからと思っている。

 

分かりやすく言うため弓矢を例にとろう。旧来のサイバネティックスでは矢がはずれた結果を見て射手は「もう少し上か」「若干右か」などと狙う位置を修正するとする。

 

しかし実際の射手は射る方法や力加減、弓が適切かまでを含めて修正するものだ。

 

つまり、渡り鳥がただ角度を修正するのと違い、実際の射手は決して単純ではない。2つに分けると、的を見る主体としての射手は、的と矢の結果を見つつあれこれと思い、矢を射る主体としての射手は、実体の問題として方法そのものや弦の張り具合、自身の力加減を調整する。

 

見る主体のプロセスと動く主体のプロセスとを分けて考えた方が実際的なのである。

 

ただし、両者を全て別々にという訳ではなく、見る主体の射手も方法論を思い考えるようになるし、動く主体の射手も方法的に上手になれば方法に悩むことなく矢を向けて思い通りに射るようになる。

 

これらを丹念に追っていったものこそ本サイト「ツインサイバーシステム」である。そして実際の産業構造も、見る主体向けに雑誌や映像などのサービスを提供する産業と、動く主体向けに道具や弓場などのサービスを提供する産業とに分かれるものと振り返れば、旧来の単純なサイバネティックスよりも実際的なツインサイバーシステムの方が有効だと気付くだろう。

 

まだ気付く人は他にいないが。

 

「AIの時代」に進むか?

囲碁界では、人工知能と見られる謎の棋士が幾つかネット上に出現し、プロ棋士を次々と撃破している話題で持ち切りだ。

門外漢の間では謎の棋士の正体を一昔前の漫画「ヒカルの碁」を思い出して、伝説の棋士藤原左為の亡霊だという声が大きいが、現実的に考えて過去の棋譜を集計してつくりあげた高性能の人工知能であることに間違いない。

より高次の勝負を求める方向性がこのような現象をつくっているのだろう。ならば、

他の分野にも応用できるのではないだろうか?

例えば過去の政治的判断を集計してベストな政治的回答を下す人工知能。

同じく経済や環境の分野、教育についても。

もちろん人間が自ら考えて判断し動くことは尊い。しかし、現状を見る限り多くの人はあまり考えず前例を踏襲しがちだ。

不登校問題をとってもベテランの教師は仕方ないで済まし、逆に新米教師の方が最善な取り組みを行う例を見たりする。後者の判断はおそらく人工知能が下す回答に近いと思う。

最後に哲学思想の分野についてだが、ツインサイバーシステムの本編も、実は人工知能が哲学者や思想家の説を集計していくことを想定して進めたものである。囲碁と同様に、より高次のものを目指せばそうなる。

その結論は決して甘く低次元なものではなく、美しい規則性と厳しさに満ちている。

新自由主義の思想的欠点

1月20日に就任するトランプ次期大統領と新自由主義との関係が不明瞭と言われている。

新自由主義に否定的な立ち位置に立つ識者の多くは、トランプが庶民の味方になることを願っているが、よく知られている通り彼自身がセレブであり国際金融とも多国籍企業とも決して疎遠ではない。

何より、新自由主義を排して他にどんな主義を採用するというのか? このセリフは竹中平蔵をはじめ多くの新自由主義者が時々偉そうに吐いている。何も無いではないかと。

彼らが妙に?自信を持つ理由は、18世紀イギリスの哲学者ヒュームの「観念連合哲学」まで遡る。当時ヒュームは「原因と結果との連合は絶対ではない」と看破した。そこから多くの伝統が崩れた。迷信や伝統や宗教や非科学の一切は排され、実験科学で因果を確固とすることが重んじられ、議会政治での議論や市場経済の競争によって観念連合が練られることが進められた。

それは良いことだが、新自由主義者は更に、国家の介入そのものが何でも市場競争を妨害すると考え、国境なき世界(New World Order)なるものを夢想した。経済学者の中に時折り似合わない長髪の人がいるのはその象徴である。

しかし、国家がなくても良いと言えるほど万能で若い人なんているのか??  多くの人は当たり前なことだが生活に必要とする。

したがって新自由主義は暴論と言える。

多国籍企業や国際金融が海を越えて拡大するにあたり各国固有の文化や制度が邪魔だから新自由主義という思想めいたものを謳ったという面が真相であり、その具体例がTPPだったりするなのだが、多くの人が指摘する通り、各国固有の文化や制度や伝統も防犯や防災や衣食住全般にわたる必要性や歴史があって存在している。

そもそもヒューム自体、

中世が大多数の人間に合わない社会だったからこそ、人間に合う社会を構想して哲学者となった訳で、大多数の人間に合わない社会を敷く新自由主義者はヒューム的とは絶対に言えない。

ツインサイバーシステムは、本論を読めば分かる通りヒュームが非常に重要なところにあり、その上で衣食住全般に渡る人間に合う社会を構想している。アンチ新自由主義の急先鋒である。