「日暮旅人」が見た感情

「視覚探偵 日暮旅人」第1話を見た。

詳しいドラマの感想は他サイトに譲るとして、ここでは主人公が目にした「植物の感情」について書く。

満月の夜の森林公園で、日暮旅人は「木々たちが今夜は月がきれいだと言ってる」と呟いた。各植物の上にはゆらゆらと棒状の煙のようなものが白く光って揺れていた。

普通の人には見えなくとも、視覚だけが異常に発達したため見えるという。では実際問題、植物に感情はあるのか? 実は聞いたことがある。植物に火を近づけると怖がる波が検知されるのだ。

そして主人公は、人間の頭上にも揺らめく感情の波が見えており、その形が似ていたため親子を会わせている。

このブログの上に載せている図をご覧いただきたい。感情が生じている様子がよく分かるだろう。

整理すると、左端がモノ、次に微生物、そして植物、動物という順番になる。植物は月を愛でたり火を怖がったりの感情は発するものの、だからといって火から逃げることはできない。一方、動物は感情段階の次段階で動くことができる。

では人間は何か? 本編にある通り人間は「考える葦」であり、プログラムを思考で変更できる。上図には載っていない更に後半がある。

最後に、思考は素晴らしいもののプログラムを改変しきれず諸問題に対応できなければどうなるか? 感情は発するもののそこで止まり、枯れていく植物のようなものだろう。

ローマ帝国や世界の王朝も栄光は永遠でなくやがては滅んでいる。プログラム改変に限界が来たのである。ただ植物が種を残すように人類の歴史は別の人物が別の都で別天地をつくって継続していく。

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アメリカの強さを哲学で解く

第45代トランプ大統領が誕生した。

本人の資質に問題が大いにありと言われているが、アメリカという国自体にはまだ力がある。国内総生産等の経済力、軍事力、ノーベル賞獲得数、オリンピックのメダル数、映画や歌、興行などハイレベルだ。

これらの要因は何か? 単に移民の国と言うだけではオーストラリアなど他国にも相当する。キリスト教と言うのも同様。では自由の国だからか?

実は見過ごされがちだがアメリカが台頭した19世紀後半から、この国ならではの哲学が大きく影響していた。

それが、チャールズ・サンダーズ・パースが唱えた「プラグマティズム」である。哲学史ではパースの他、ジェームズ、デューイなどの名前が後に連なる。

さて、パースの本を読むと、18世紀イギリスの哲学者で多方面に強い影響を与えたヒュームを想起させるくだりがある。

ヒュームの有名な「観念連合」という哲学の場合、「肖像画を見て本人を思う類似の連合」、「キセルを見て本人を思う近接の連合」、そして「煙を見て火を思う因果の連合」の3つがある。(ここから中世スコラ哲学の教条主義や呪い、精霊の仕業等がただの観念連合に過ぎないと粉砕され、より確かな観念連合のため実験科学の台頭や議会制民主主義、市場競争経済、さらに認識全般を見直すカント哲学へと影響し、20世紀になってもアインシュタインの相対性理論に影響した)

しかし、更にパースの場合、観念連合は全て「判断の連合」だと言うのだ。確かに、肖像画を見て本人と判断し、キセルを見て本人と判断し、煙を見て火だと判断している。連合が頭の中にあるとしても、類似、近接、因果は外部に表出する時の3パターンに過ぎないと。

パースはこのように、人間の中ではなく外の方を重視した。そして、「解釈者、記号、対象」という記号の3項関係をまとめあげ、記号論の創始者にもなった。

記号論で全てを見直していくと、言論の究極にある真実というものもまた見方が変わってくる。真実も記号の1つになるが、真実として価値のあるものとするためには、「道具として有用でなければならない」。

これが、プラグマティズム(道具主義)の骨子である。

アメリカでは哲学をこのように捉えたため、使える真実に敏感になり、使えない真実はヨーロッパのように残したりせず廃棄した。モンロー主義で一時は孤立を選んでも、必要とあれば果敢に戦争に参加し、ゼロ戦が優位と見るや同タイプの戦闘機を増産し、また空母や爆撃機を使用した。原爆すらも道具となった。

アメリカを象徴するコカ・コーラも製法を特許申請せず秘伝とし続けるのも、公開されて世界が真似しないための現実的知恵と言われる。

ただ現状では、パースを創始者とするプラグマティズムは、特に哲学の俎上に上がらなくなった。出てきた当初は道具的真実が新鮮で他哲学と比較して優位と思われていたが、寡黙で変わり者の(ヤンキーっぽくない)パース没後、徐々に忘れ去られてきているのか。

本サイトのツインサイバーシステムでは、同じく「使える知恵」を重視する。ただ使える知恵が使えなくなる時がある点も考慮するし、目的値通りの実現値を得られないあらゆる外乱を解決する知恵を重視する(上図)。

したがって、トランプという人を道具として選んだりせず、思想哲学の変更切替を論じるべきと思う。

人類の精神史に神秘が絡む

 「太ったブタより痩せたソクラテスになれ」で有名な古代ギリシャの哲学者ソクラテス。

 当時、知識を商売にするソフィストたちが横行する中で、彼だけは違った考え方を持っていた。お金を支払って文芸や数学を教えてもらうのではない。若者1人1人に対し彼は質問を何回も投げかけ、その問いに答えていく中で若者は自分の中に隠れていた真理に気が付いていく。

 この方法を哲学史では「産婆術」と呼び重視する。他のソフィストにとっては商売の邪魔になる。最期はとうとう裁判にかけられ毒杯をあおって死ぬことになった。優秀な弟子のプラトンは死なないよう懇願したが、「これも裁判結果」と返された。

 プラトンはその後、「アカデメイア」という学校を創設。後のアカデミーの語源になった。そして、「洞窟の比喩」を用いて、一般人はまるで洞窟の中の囚人のように壁に映った看守の影しか見えてない。真実は背後にいるのに、と言い、真理(イデア)と人間との構図を示した。イデアも後のアイデアの語源となる。

 プラトンの弟子のアリストテレスは、師匠が上ばかり見て足が地から離れていることを批判し、真実は地上にあると下を重視した。動物を分類し、植物を分類し、政治形態を分類し、分類そのものを研究し(範疇論)、「形相と質料」という構図を提示した。

 ギリシャ哲学史はこのアリストテレスでいったん終わり、しばらく大哲学者は出て来ない。長い中世は前半がプラトン寄りのアウグスティヌス(終末論)、後半がアリストテレス寄りのトマス・アクィナス(スコラ哲学)が登場し、煩雑なスコラ哲学の教義への反発から近代が芽生え、17世紀フランスのデカルトが理性を発見して再び哲学史が進み始めた。

 こう見てくると、ソクラテスの登場が非常に重要だと分かる。ただ彼の登場は一種神秘的だった。

 そもそも当時まったく売れてない貧乏な思索家の1人。このままいけばメジャーにならないまま死に、歴史の中に消える存在だった。

 しかし、劇的なことが起こった。ある神殿にて、「この世で一番賢い人は誰?」との質問に、デルフォイの神託は「ソクラテス」と巫女を通じて答えたのだ。みな驚いたが、本人は真摯に受け止めた。

 つまり、神託がなければ、プラトンもアリストテレスも出て来ず、中世の哲学も近代の理性哲学も今とはまったく違ったものになっていたのである。

 これは大変なことで、現代に大哲学者がなく思想的に停止して世界が停滞している中でも、神託のような非合理なことが起きなければ何も変わらないのではないか。もし非合理な何かが起きれば、従来では考えられなかった在野からの大哲学の出現もあり得るのだ。

 似たような例を他に挙げれば、もし織田信長が少年時代に年下の徳川家康と出会って川遊びをしなかったら、後の信長・秀吉・家康の3代による戦国時代の終焉も江戸幕府の創設も明治以降の近代化も今とはまったく違ったものになっていた。駿府に行くはずの人質家康が尾張に奪還された出来事に神秘性が帯びてくる。

 また、モーツァルトからベートーベン、シューベルトの3代というものもある。それぞれ立派な音楽家だが、特にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは若い時から世間には衝撃的な「天才」で、神秘的なほどだった。その最期も神秘のベールに包まれていた。1984年の映画アマデウスも大ヒット。このブームからオーストリアのファルコが一風変わったラップを発表。すると瞬く間に世界中に広がり、全米でも1985年早々に、英語以外の曲としては初の1位を獲得した。

思考のルーツを探る

先ほど「LOVE MUSIC」という番組で、いま10代の若者に人気の「back number」が出演していた。

実は年末、18切符で貧乏旅行をする途中にスマホで検索して泊まるつもりだった地方の漫画喫茶がつぶれていて、代わりにカラオケボックスで寝ることにした際、繰り返し彼らの曲(ハッピーエンド)が流されていた。店を出て始発電車に乗る際、このサイトの名前が決まった。

年甲斐もなく、テレビを消さずに番組を視続けるのを不思議がりながら妻子がリビングを出た。

自分たちの音楽のルーツについて、過去の日本のミュージシャン名がいくつか出てきた。コブクロ、ミスチル、槙原、桑田・・・。

演奏する段になってふと気付いた。真ん中にドラムを挟んだ3人組というこの構成は、アメリカのZZTOPに似ているではないか、と。

backnumber-zztop

1980年代のアメリカを席巻していた人気バンドで、私もよく視聴した。特に好きだった曲をここに紹介しておく。

「STAGES」という曲で、今思うとツインサイバーシステム冒頭の、「段階を少しずつステップアップする」プロセスの話に大きく影響していたのかもしれない。

将来の大政治家に向けて書く

いまNHKでスティングの特集をやっている。最高だ。

聴いたことがある曲ばかり流れる。お、「イングリッシュマン イン ニューヨーク」が出てきた。日本語の歌詞を初めて見たがイメージしていたとおりの哀愁漂う歌詞である。

インタビュアーが質問した。「歌で世界を変えることはできるか?」

スティングは答えた。「人の考えは簡単には変わらない」「一夜で世界は変わらない」

「でも何千人もの人々の前で歌うときにこう思うことにしている」「この中に将来世界を変える政治家がいるかもしれない」「大統領か、もしくは国連の職員かもしれない」「将来そういう仕事をすることになった時に思い出してもらったらいい」と。

同感だ。

いや、彼はかつて本当に世界を変えてきた。1985年のナンバー「ラシアンズ」をグラミー賞で見た時の圧巻。オーケストラをバックに高い壇上から叫んだ歌声が、永遠に続くと思われた東西冷戦にヒビを入れ、数年後のソ連東欧の崩壊を引き起こしたのである・・・と思う。

最後に特集では、21世紀に入ってからの13年間のスランプを扱った。今ではロックナンバーで復活したものの、これはおそらく燃え尽き症候群だと思う。

「人の考えは簡単に変わらない」 だから哲学を語るのを辞める? いや、閲覧者の中に将来の本物の政治家がいることを想定し、ラシアンズのように格調高い作品を送り続ける。

メタ哲学の観点

現代を哲学面から考えることがこのブログの趣旨である。

 

サイト中編では冒頭にパルメニデスからサルトルまでを載せた。問題はその後。

 

現代思想史では、ここで構造主義がくる。レヴィ・ストロースはサルトルと論争して勝ったとされ、主体よりも構造が重んじられた。

 

しかし、構造主義の時代は短く、すぐその後にポスト構造主義がくる。構造を脱構築しながら別のものが生じることを指す。その中心人物たるデリダが亡くなった後が不明。

 

1980年代は、ポスト構造主義よりポストモダンという言葉で思想が流行った。様々なキーワードが乱立した。

 

ポストモダンになってもニーチェが重要視されることから、構造主義とポスト構造主義の関係とは、単にこれまでの哲学史の繰り返しとも思われる。以下に証明したい。

 

・「近代哲学の父」デカルトが発見した理性 → カントの「二律背反」の境地 → ヘーゲルの「正-反―合」による理性の完成」・・・・「二項対立」を含む構造主義

 

・ヘーゲル的な理性の完成への反発 → キルケゴールの「単独者」 → ニーチェの「能動的ニヒリズム」 → ハイデガーの「放下」 → サルトルの「自由」・・・・ポスト構造主義の二項対立の否定

 

すなわち、「デカルト~ヘーゲル」「キルケゴール~サルトル」までの哲学史を、構造主義とポスト構造主義が繰り返している。

 

したがって、次に来るのが例えば「ニュー・ワールド・オーダー〈世界新秩序)」だったりすることも分かる。ただこれは市場原理主義者による多国籍企業が潤うための規制撤廃を意味するので秩序らしい秩序でもない。

 

ハイエクは「自生的秩序」と呼んでいるが、うまくいかなければただの「無秩序」である。

 

そこで、ポストモダンの論者の中には、理科系の骨組みを借りる者も現れた。すると20世紀末に有名な「ソーカル事件」が起きる。本職科学者のソーカルがデタラメな論文を哲学系の雑誌に投稿すると掲載された、したがって現代思想の科学による権威づけはナンセンスであると。

 

以後、思想家は21世紀の目まぐるしい変化の中できちんと語ることができないでいる。そんな中で、テロが起きたり、経済が落ち込んだり、少子高齢化が進んだりしている。

 

かつて、17世紀にデカルトが理性を発見したから長い中世から脱して近代が幕を開けたように、哲学の面から何かなければ世界はずっと対症療法に右往左往するのみになっていく。

 

ツインサイバーシステムはサイバネティックスという科学にヒントを得つつ、前々回に書いたように問題点は解決して更に広げている。

 

一見すると構造主義のようであるが、構造の変化を追っているところはポスト構造主義的でもあるし、どちらかに属すものでもない。

 

メタ哲学の1つと言った方が正確である。

 

 

華やかな時代ほど大哲学者が多い

ソクラテスやプラトンが現れた時期は、ギリシャ時代の中でも最も華やかな時期だった。

アリストレテスの教え子のアレクサンドロス3世が没してからは、ギリシャの衰退と時を同じくするかのようにタレスから続いていた大哲学者の系譜が途絶えてしまった。

その後、中小の哲学者は中世まで何人か出てきたものの、大哲学者と言える人は17世紀フランスのルネ・デカルトまで期間があいた。

デカルト以降、ロック→ヒューム→カントのように大哲学者が次々と現れた。それはヘーゲルやニーチェなど19世紀末まで続き、ちょうどヨーロッパの隆盛と同時期だった。

おそらく、大哲学者と呼べる人はサルトルで終わりだと誰もが認めよう。20世紀に入ってからはレヴィ・ストロースやデリダなど中小の哲学者がしばらく現れた。

それも1990年頃までであって、デリダが没して以降、中小の哲学者すら話題になっていない。日本も同様で、80年代のポストモダンまでは浅田彰が小哲学者と言えたが、90年代以降はまったく静かだ。

それは良いことか悪いことか、と言えば、時代の活性化のためにも改めるべきことと思わねばなるまい。ではなぜそうなったのか、どうすれば良いのか。

実は最近は特に、哲学思想系の材料は非常に豊富だ。90年以降の東西冷戦終了とグローバル化の是非、95年からのインターネット社会、2001年からの対テロ、その他環境問題や地震、少子高齢化、働き方の変化など。

これらの激しい変化が、サルトルやデリダ以降の思想的流れからどのように続いているのか、もし大哲学者と呼ぶべき存在が大学か在野にいるのなら、簡潔明瞭に示してほしいところである。

その見方が幾つかに分かれ、今後進むべき方向性についても幾つか論争がもし起これば、かえって時代は華やかといえると思う。

現状では誰もいない。

現状では週刊誌の記事に驚いたり、事件事故に驚いたり、ネット上で騒がれたりするだけで根本的な思考は何もない。

エセ哲学者が人生相談に答えたり、アナウンサーに解説したり、本のタイトルをキャッチーなものにして売上を喜んだりする程度である。

まさしく衰退期の現象。晩期ギリシャ、晩期ローマもこんなものだろう。寂しい限りだ。

繰り返すが哲学思想系の世界が活発になることは良いことである。新自由主義を根本まで遡って批判することも、それを支持し新しい道を示すことも、さらにステップアップすることも。

まずはそこに気が付こう。